繊維の街、児島より全国へ
繊維の町児島で発展した学生服
児島の繊維産業の発展を振り返ってみると、江戸時代、塩分を含んだ土地でも栽培可能だった綿花栽培が盛んにおこなわれ、その良質な備中綿を原料として山々から流れる小川の水流を利用し織物業が発展します。由加山の参道沿いでお土産品として小倉織、真田紐などが売られていました。学生服の起源は、明治時代と伝えられていますが、当時は贅沢品として捉えられ、今のように既製品はなく、すべてオーダーメイドで作られ、一部の裕福な人にしか普及していなかったそうです。その後、明治以降の洋装化に伴い大正時代には縫製、染色技術を活かして学生服へと転換していきます。大正中期頃よりモダニズムの広がりと第一次世界大戦の戦争需要の好景気とが重なり、それまで贅沢品扱いであった洋服が庶民の間へ普及し始め、それと共に次第に学生服も全国的に普及していったのです。児島地区でも学生服の創始者、角南周吉や学生服の先駆者として知られる家守善平などの活躍により大正10年頃から霜降りの学生服の量産が始まり注文量が増加していきました。またそれに伴い近隣地域だけでなく四国・九州から多くの出稼ぎ労働者が集まり、生産量を増加していきました。当時、児島の町も多くの縫製工で賑わい活気に溢れていたそうです。
大生産地 児島発の学生服
団塊世代の多くの方が青春時代、学生服、セーラー服を着て学校へ通い、卒業式には第二ボタンをあげたり貰ったりと、素敵な思い出をたくさんつくられた事と思います。そんな青春をともにした学生服ですが、時代の流れとともに、詰襟タイプの学生服からジャケットタイプや様々なデザイン、スタイルへと変わりつつあります。そんな中、岡山県では全国の学生服の約7割が生産されており、多くの学生服メーカー及び関連企業がここ児島地区にも集結しています。近年少子化の影響で、学生服の減少が見込まれる昨今、多くの企業が中国などの海外に生産拠点を移す中、児島地区の多くの企業では様々な企業努力を重ね今も尚、自社工場で生産を続け、良質な「児島発の学生服」を発信し続けています。