社名誕生秘話
明治18年(1885年)、苗作りの本場香川県三豊郡で、大山民造氏によって造園業を営なんだのが始まりです。当時は庭師と呼ばれ、民造氏は地元の旧家や寺院等の庭園を一手に任され評判を呼び、海を渡って倉敷へも仕事に来ていました。
二代目、嘉之助氏の時、中島に居を構えられ、今日の基礎が築かれました。そして、倉敷を拠点にされてからは、市内を中心に西は広島、東は姫路や芦屋からも依頼があり、その当時手掛けられた庭が旧家には今でも数多く残っているそうです。
当時の得意先が、「一天にのぼる龍のような、りっぱな庭を造るように」との思いを込めて、社名を「老龍園」と命名しました。技術の鍛錬と老舗としての格式を常に高めて欲しいという願いもあるそうです。
公共緑化事業の拠点
終戦間もなく、水島臨界工業地帯へ各企業の進出が著しい頃、老龍園は工場緑化にたずさわり、また市内の公共施設や学校等の緑化事業も一手に引き受けられました。その勢いは「老龍園が手掛けないものはない。」と言われる程の勢いでした。さらに、当時の3代目誠一氏が、昭和49年(1974年)に株式会社へ組織変更し、造園・土木・設計コンサルタント部門の充実を図るため、昭和53年(1978年)に老龍園緑化株式会社を設立されました。
少子高齢化の波の中
現在は4代目である雅章氏が社業を切り盛りされていますが、「職人さんは職人さんの仕事をする。」とのモットーで、常に創意工夫を加えながら作業しています。特に、現代家屋は洋風が多く、かつてのように縁側で庭を眺めながらひと時を過ごすことが減ってしまいましたが、どんな要望にも合わせて造園するそうです。
若い「職人さん」がなかなか育たないのが悩みの種だそうです。
(2013.09)