株式会社 田中商会

循環型社会に対応する屑屋ロマン

所在地
〒710-0803 倉敷市中島1395
電話番号
086-465-3050
代表者
室山敏彦(代表取締役)
創業
明治34年(1901年)
事業内容
再生資源回収卸
従業員数
67
ホームページ
https://www.tanaka-rc.co.jp/

創業110余年の変遷 明治‐大正期

 明治34年(1901年)2月、株式会社田中商会は田中屑物店として創業。同年には日本国内で2番目の製鉄所である官営製鉄所(後の八幡製鐵所)が創業、4月29日には昭和天皇が誕生しました。
 当時は国内の鉄粗鋼生産高が推定40万トン弱。布屑や紙屑の扱いが多く、金属屑では、国内生産量の多かった銅や銅の僚品による汎用品が主流だったそうです。
 大正12年、関東大震災が起こり、関東地域には甚大な被害がありましたが、この後に復興需要もあり、粗鋼生産量が96万トンに増大。この頃から機械式紡績業も盛んになり、一般にも鉄製品を使うことが増えだし、次第に鋳物と並び鉄屑が増えて行きました。

激動の昭和

 昭和17年(第2次世界大戦時中)、粗鋼生産量は704万トンまで伸びます。しかし、終戦後の昭和21年には56万トンと、大正時代初期の水準にまで落ち込んでしまい、戦後の復興にかける日本が698万トンの粗鋼生産にまで戻すのに、6年の年月を要したそうです。
 昭和27年5月に会社を設立、株式会社田中商会として法人登記しましたが、再興の道を歩み始めた頃の日本においては、何でも集めさえすれば面白い程売れた時期もあったそうで、脱穀後の稲わらや縄の屑、電球(白熱電球)も硝子屑として売れたそうです。
 昭和30~40年代の高度経済成長時代に入ると、鉄骨家屋や大型の鋼構造物、プラント等の屑の発生が増大しました。また、寿命を終えた船舶が廃棄処理のために再生資源市場に出回り、これらの加工処理に対応するため大型処理機の導入や設備の導入が必要となり、手狭となった工場を昭和44年、現在地に移転しました。尚、この当時の日本は、粗鋼生産量が8216万トンで、鉄鋼では一流国となり、その後も列島改造論の波に後押しされて11900万トン強まで生産され、この数字は現在も破られていないそうですが、産油国の起こした戦争や革命による2度のオイルショックを機に戦略減産を余儀なくされるなど、過剰消費への警笛を鳴らされた時もありました。

時代とともに

 廃棄された白物家電や、廃自動車には何十種類もの素材が複合しているため、新たな装置や手法による処理方法が求められますが、4代目の田中穣氏は次のように語ります。「創業110余年の歩みとともに、これからも使命を終えた屑を、再び生まれ変わらすこの事業に、誇りを持って歩み続け、邁進する所存です。」

(2020.12更新)