伝統産業として
茶屋町はかつてい草の一大産地で、須浪家もい草を生産していましたが、明治19年(1886年)、須浪儀三郎によって畳表の製造販売も開始し、い草製品の一貫生産をスタートさせました。
昭和40年代に入り、畳表以外にも花ござの製造販売を3代目須浪亨が始め、屋号も「早沖○百花莚 須浪亨商店」とし、販路を拡大して行きました。
※〇百は囲み文字に百。
早すぎる4代目の逝去と事業承継の間で
4代目須浪伸介に継がれ、花ござと新しい事業としていかご製作も始め、事業は順調に営まれていましたが、彼の早すぎる逝去により、事業は一転してしまいます。
一時は事業をたたむことも考えたそうですが、4代目の母栄さんは、「家業として自分に出来ること」を色々と模索し、老舗企業を守る決意からも選んだのが、いかご作りへの専念でした。
丈夫で温もりのある「倉敷いかご」
栄さんの手作りいかごは、素朴なデザインと丈夫さで評判が良く、須浪亨商店の看板商品ですが、年齢的にもきつくなり、事業の継続を思い悩んでいる時、孫の須浪隆貴さんが事業を承継すると立ち上がりました。
今後は、伝統の灯を絶やすことなく、新しいデザインと息吹も吹き込ませて、洋装にも良く似合ういかご作りを考案してみたいそうです。
手作りなので1日数個しか作れませんが、出来立てのいかごは淡い緑色で、い草の香りや、自然にかもし出す風合いが素敵です。手作りならではの丈夫さで何年も使用でき、綺麗な茶色へと変化しながら、深みを増します。
伝統的な倉敷の民藝を広く知ってもらうために、隆貴さんの挑戦は続きます。(2015.09)