明治時代、初代高田槇太郎氏が製織業を創業
明治時代初代高田槇太郎氏が倉敷市児島唐琴にて備前小倉袴地帯(真田帯)等の製織業を創業したのが始まりであると伝えられています。その後、大正10年頃松井武平氏が児島唐琴地区に畳縁の製法を伝え、初代高田槇太郎氏も松井武平氏に畳縁の製法を学び、大正末期~昭和初期の頃から畳縁の製造を開始したと伝えられています。
第2次世界大戦がはじまると、政府の要請により企業統合にて、昭和17年(1942年)「山高織物有限会社」を設立。当時は、軍需品(細幅のテープ、ゲートルなど)の製造を主に行っていました。
紋縁の開発に成功 綿から合成繊維の時代へ
戦後になると、昭和25年(1950年)2代目高田尚浩氏が「高田織物株式会社」を設立して畳縁の製造を再開しました。当時は綿の無地縁を中心に製造していました。昭和37年(1962年)これまで使用していた綿に代わり、合成繊維(ポリエチレン糸)をジャガード(柄出し装置)で浮き沈みさせて柄を出した紋縁の開発に成功して、「大宮縁」として全国に向けて発売しました。その後、昭和40年(1965年)縦糸二重織の「大宮縁」の高級バージョンとして、縦糸三重織の「新大宮縁」を発売しました。その後も、昭和46年(1971年)ニードル織機(150回転/分)の自社開発に成功をするなど順調にその歩みを進めて行きました。
「MADE IN児島唐琴」の畳縁を発信
昭和53年(1978年)3代目高田幸雄氏が社長に就任すると、昭和57年(1982年)大宮縁全国代理店会「大宮会」を設立して、全国の代理店と情報交換、交流をおこない更なる製品の向上に向けて開発研究を進めていきます。昭和60年代にはメカジャガード搭載高速ニードル織機(500回転/分)の導入や整経工場・製織工場・出荷場・事務所の集合化をおこない、業務の合理化を進めて行きました。
平成に入ると、電子ジャガード搭載高速ニードル織機(800回転/分)の導入や整経倉庫、製織工場の増設など更なる設備改善を行い、また構内の環境緑化スペースの拡充を進めて行きました。
現在は、月産3,000km(作業日数=年間260日・能力=月75,000反)の生産能力を有して、約1,000種類もの多種多様な畳縁を製造しており、畳縁のトップシェアを誇る畳産業界のリーディングカンパニーとして、児島唐琴の地よりオリジナリティ溢れる高品質の畳縁を全国に向けて発信しています。
(2020.11更新)
明治21年創業 伝統ある老舗和菓子店
営業時間:8:30~17:30 休日:正月(1/1~2)美しいきもの
呉服・帯・ちりめん和雑貨等販売、着物各種クリーニング、着付け教室