薄田泣菫生家(すすきだきゅうきんせいか)

明治詩壇の巨匠「薄田泣菫」生誕の地

所在地
〒712-8011 倉敷市連島町連島1284
電話番号
086-446-4830
概要
明治詩壇の巨匠薄田泣菫にまつわる数々の歴史的資料を展示した館内は、泣菫が少年時代を過ごした当時の雰囲気が残されており見応え充分です。
ポイント
営業時間:9:00~16:30 
休館日:毎週月曜日、年末年始
入館料:無料
駐車場:5台あり
アクセス:大江バス停徒歩5分

都羅の小径沿いに佇む「薄田泣菫生家」

 倉敷市連島町(大江地区)都羅の小径沿いにある薄田泣菫生家は、明治詩壇の巨匠薄田泣菫が明治10年(1877年)に父篤太郎、母里津の長男として生まれ、幼少期、晩年を過ごした場所であります。幼き頃よりこの連島の地で育ち感性を磨いた泣菫は、その後の人生の中で、数多くのすばらしい詩・随筆などの作品を生み出しました。まさしく泣菫の原点ともいえる場所と言っても過言ではありません。
 泣菫の偉業を称えて、後世にその足跡を伝えて受け継いでいこうと、地元住民や文学・歴史研究家など多くの人々の尽力よって、平成15年(2003年)、母屋の改装工事がおこなわれ、泣菫にまつわる貴重な資料・展示物が一般に公開される様になりました。
 周囲にはとても印象的な茶色の土壁が四方に設けられており、歴史を感じさせる正門を潜ると、「四国・九州間」と呼ばれる様式の珍しい構造の母屋、梅・樫・柿・夏みかんなどの庭木、石が配しされている庭など泣菫が育った当時の生家の様子が窺えます。母屋の中には、与謝野晶子からの手紙など、泣菫の交友関係を窺える貴重な資料が数多く展示されています。また、当時使っていた五右衛門風呂や井戸なども残されており、魅どころいっぱいのスポットとなっています。

明治詩壇の巨匠 薄田泣菫(本名 薄田淳介)

 薄田家は、代々文学を好む家系で、泣菫も幼少の頃から読書好きの優秀な少年で、高等小学校の頃から雑誌に詩文を投稿していた泣菫は、明治27年(1894年)17歳で上京。漢学塾などに学びながら、上野図書館で和漢洋の書物を読破し、独学で文学を学んだ。明治30年(1897年)20歳の時、文芸雑誌「新著月刊」に「花密蔵難見(はなみつにしてかくれてみえがたし)」と題して長短13編の詩を発表。この時に初めて「泣菫」の号を用いており、本作品は高い評価を得た。その後も次々と作品を発表、明治38年(1905年)に発表の「ああ大和にしあらましかば」は、泣菫の代表作として名詩中の名詩であると高い評価を受けています。明治39年(1906年)の詩集「白羊宮」は、円熟期を迎えた泣菫の集大成ともされ、これ以降、詩から散文へと徐々に活動の場を移していったが、新体詩(文語定型詩)を発展させたことが泣菫の最も大きな業績であると言えるでしょう。
 その後、泣菫は大正元年、大阪毎日新聞社に入社。随筆「茶話」をはじめ「後の茶話」「新茶話」など次々と作品を発表して、読者を魅了。また、芥川龍之介、菊池寛など新進作家の発掘など文学界の発展にも貢献。
 晩年は健康を害してしまい闘病生活の傍ら、創作活動を続け文学一筋にその生涯を捧げ、昭和20年(1945年)、多感な少年時代を過ごした故郷の生家に帰り、まもなく68年に及ぶその生涯を閉じました。

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