老舗未来。

創業して100年を超える、「老舗」。
辞書を引くと、老舗とは代々に渡って繁盛し、名を挙げ信用を得ている店、とある。
ひと世紀も前の倉敷に根付き、ある者は丈夫な帆布、ある者は良質な木材、
ある者は新鮮な卵、そしてある者はい草にこだわった。
その老舗がなぜ現代に、と思う人もいるだろう。
およそ日常の暮らしの中では、老舗とは一切関わらない人の方が多いはず。
それでも彼らは生き続けている。信用を得ている。
時代の波を乗り越え、見えない未来へ歩もうと、
強さとしなやかさを持ち、熱く新しくあろうする、老舗。

倉敷の老舗は、みな粘り強い。
そして世界にも目を向け、多様性の大切さも認めている。
積み重ねた歴史とあるべき理想のバランスを、常に追い求めている。
これは今、市場で一番必要なビジネスモデルではないか。
学ぶべきは、時代を生きる術。
そんな老舗が倉敷には100以上ある。
ここで紹介するのはその中の一部。
これまで続いてきた老舗の今を見て欲しい。

―老舗にこそ、未来はある。

世界から評価される帆布を製造(株式会社 タケヤリ)

約130年間に積み上げた
信頼を胸に。

創業は1888年、明治21年のことだ。足袋の生地や衣料の生地の製造を始め、優れた織り手による上質な生地が評判を呼んだ。やがて大量の注文が入るようになり、1927年(昭和2)年、工場を設立。現在、広大な敷地に建つ大規模な工場は、ほとんどがその当時のものだ。産業の発達にともなって、帆船の帆に用いられる布、綿帆布の専門メーカーとして業績を積み重ねていく。昭和中期以降、綿帆布は、ベルトコンベアーの基布やトラックの幌など、化繊では代用できない産業資材として求められるようになっていた。

世界で評価される
綿帆布のクオリティ。

『タケヤリ』が製造するのは、白と生成りの綿帆布。その均一で美しい仕上がりは際立っている。このような製品が生まれる工場を覗いてみると、巨大な糸巻きの機械の部屋、織り機が何十機と稼働する部屋、出来上がった生地をチェックする部屋が連なり、廊下をフォークリフトが糸や布を積んで移動している。製造単位の規模は言うまでもない。世界で株式会社タケヤリにしか織れない厚みの帆布が存在するほどの高い技術が圧巻だ。彼らが生み出す生地のクオリティは、当然ながら海外からの評価も非常に高い。

高品質の製品が
さらに世界で認知されるために。

リテールディビジョンの賀川翔太さん(29)は、入社6年目。この歴史と信用ある会社の帆布のブランディングに取り組んでいる。入社後まもなく、自社帆布を使ったバッグの製造がスタートした。帆布のバッグは約30年前にブームがあり、現在は定番化している。そんなマーケットに投入したのが、『TAKEYARI』、『UNDER CANVAS』、『UNSAI』の3ブランド。江戸後期に開発されたテキスタイルをよみがえらせたものなど、この会社にしか出来ない商品である。
産業資材に使用されていること自体、高クオリティの証だが、『タケヤリ』が製造する帆布の良さをさらに認知してもらうため、実際にふれてもらおうと始まった事業。「街で自社製品を見つけるとうれしくなる」と賀川さんは語る。今後はアパレル以外にも、アウトドア、インテリア、スポーツ業界での事業展開案を検討している。それは130年の歴史ある会社を、今の時代に合わせていくことでもある。
(平成29年10月5日取材)

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養鶏から皆のしあわせをつくり出す(株式会社 のだ初)

一大「ニワトリカンパニー」を
目指して。

1913(大正2)年、飼料雑穀店として創業した『のだ初』が、創業100周年を迎えた2012年。代表取締役の野田裕一朗さん(43)は、この会社を背負っていく覚悟を決めた。入社18年目のことだった。鶏卵の生産から流通、販売までのシステムサービスおよび畜肉加工、惣菜、各種飼料の販売を行なう「ニワトリカンパニー」として歩んでいこうと考えた。
4代目社長として掲げた企業理念は、「善き仲間と 善き事業 善き人生を創り続ける」。これは、考え抜いた末にふっと頭のなかに舞い降りてきたものだ。思い返せば、先代からいつも、「商売は正直にコツコツとやれ」と言われ続けてきた。そのシンプルな言葉に立ち戻った、『のだ初』のリスタートだった。

ピンチはチャンスに
変わっていた。

ターニングポイントは2004年。日本で79年ぶりに鳥インフルエンザが発生した年だ。この悲劇的な出来事は、安心で安全な製品提供を実直に追求していた会社に、想定外の機会をもたらした。これまで取引のなかった店から、「値が多少上がったとしても安心には替えられない」と注文が届くようになった。学校給食も、「卵の代替品はないから」と、『のだ初』の品質の高い卵を求めた。こうして販路はじわじわと広がった。この一連の出来事を経て、自分たちが何を考え、どのように生産しているかを伝える場を作ろうと、たまご料理専門店『うぶこっこ家』をオープンした。消費者と対面し、直接話を聞くことができる貴重な場だ。訪れた人の「ありがとう」の言葉は、ほかでは得ることの出来ない励みとなっている。

譲れない
「オールハッピーの法則」。

長として決断を下すときは、「オールハッピーの法則」に照らし合わせる。「お客さま、関係企業、従業員、誰かが不幸になる可能性があるなら、それは自分たちの選択にはならない。この基準がぶれなければ間違いない」と語る。また、「若い人にはSDSをたくさん経験して欲しい」と言う。SDSとは、修羅場・土壇場・正念場のことだ。父や祖父が心身を捧げてきた仕事に対し、入社前の野田裕一朗さんは、決して理解は出来ていなかった。しかし社長となり、数々の経験を社員とともに積み重ね、乗り越えてきた今はちがう。ようやく先代の思いを知った彼が率いるのは、従業員140名の明るいエネルギーに満ちた会社だ。
(平成29年9月22日取材)

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従業員と社会をつなぐ環境づくりを目指す(倉敷木材株式会社)

ダイナミックな
「働き方改革」を実施。

創業110年を迎えた倉敷木材株式会社が行なっている「働き方改革」が爽快だ。例えば、17時以降の会議をなくし、近い部署でのワークシェアを進めた。また残業の多かった営業職のバックアップ体制をつくり、女性が活躍できるよう、男性管理職の意識改革を行なった。これらはすべて、育児、介護、障がいなど何らかの制約を持つ社員を含む、多様な個性、バックグラウンドを持つ社員が活躍できる風土をつくるための改革。また、定時で仕事を終え、それ以降の時間を、家族や地域活動に充てることは、社員が質の高い仕事をする上で必要な「生活者としての視点」を保つことになる。

社長の務めは、社員が
力を出せる場をつくること。

建設業界に長年携わってきた企業には、高度経済成長期の記憶が刻みこまれている。思いきって生まれ変わろうと、改革に踏み切ったのは、代表取締役社長の大久保陽平さん(42)だ。
2005年に入社し、2016年、代表取締役社長に就任。社会人になってからも大学院で経営学を学び、修士号を取得した。「多様な力と個性を持った社員が相互に補完し合う。それが会社というもの」と語る。大局を見ながら、社員が力を出せる場をつくることが務めだとする。企業には3つの責任があると教えてくれた。1つ目は、経済的責任で、利益から給与を支払い、納税すること。2つ目は、倉敷で長く続く企業として、先代から果たしてきた地域の活性化、環境を守るなどの社会的責任(CSR)。そして3つ目は、社員と社会をつなぐこと。この3つの責任のバランスを重視した。

「会社人」ではなく
「社会人」であってほしい。

仕事で成果を出すことが目的だと伝えても、男性管理職が定時帰宅のメリットを実感するまでには時間がかかった。そのうち、早く帰宅することで体調がよくなった社員や、新たな趣味を見つけた社員の話が耳に入り始めた。改革の成果は主力事業の革新にも現れ始めている。社員が手がけた環境性能の高い住まい「パッシブハウス」が、2017年の「エコハウス・アワード」で最優秀賞を受賞したことは一例だ。「生活者の視点」を確保したことで生まれた住宅だ。
大久保陽平さんは、若い世代に「就職はあくまで自己実現の手段の一つ。重く考えすぎないほうがいい」という言葉を贈る。過去の日本では、会社の選択は人生を左右する大きなものだったのは事実だ。しかし、「今の時代、会社は人生のすべてではない。大きな舞台だが、広い社会の中でのひとつの舞台に過ぎない。大切なのは、会社という舞台を通して本当の社会人になることだ」と。多様な人材がフェアにつながる組織にアップデートすることは、高度経済成長期を知らない世代の社長だからチャレンジ出来ることかもしれないが、使命だと感じている。そしてそれは今、この会社の最大の武器となっている。
(平成29年9月28日取材)

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倉敷の名産「い草」の未来を見つめる(須浪亨商店)

い草のかごが再び、
日常のものに。

須浪亨商店5代目の須浪隆貴さん(24)がつくる、軽くて丈夫でおしゃれな、い草のかご(いかご)。通気性があるから食品を入れるマルシェバッグに最適で、耐久性があるから普段にも気兼ねなく使える。そして何より、手づくりならではの温かみがあるから、多くの人に愛されている。 岡山県倉敷市は、畳表に使われるい草の産地だった。隆貴さんの家では、130年以上前からい草の栽培をしていた。2代目からは、花むしろやゴザの製造・加工を生業にし、3代目は、その機械化を進めた。しかし、隆貴さんが小学6年生のとき、4代目である隆貴さんの父が急逝し、事業廃業の危機もあったが、4代目の母栄さんが、いかご作りを続け、5代目隆貴さんへ引き継いだ。

子どもの頃、
かごをつくる祖母を見ていた。

昭和の時代には、畳表に使えない短いい草は、撚り合わせてかごにし、多くの人が日常品として使っていた。隆貴さんは子どもの頃、祖母がかごをつくるのを何となく見ていた。「同じことの繰り返しなんです。でも奥が深い。父親が亡くなった後、い草のかごに絞って技術を残してくれたのは祖母です」と語る。20歳で仕事を引き継ぎ、使い勝手を考えてバリエーションを増やしていった。「僕は『一生ものの道具』という言い方には違和感があるんです。道具は、いつか朽ちていく。そのことに重きを置いて、どこまで手を加えるか」。日々考えながらつくるかごは、今も少しずつ変化している。

現代に必要とされるものを
考える。

隆貴さんが進化させたい草のかごは、主に女性からの支持を得て、日本各地のクラフトショップが競うように扱いを始めた。学生時代、彫金や靴づくりを学んだ隆貴さんの工房には、日本各地の器やかごが並ぶ。その合間にはクールジャパンなオブジェも。生活の美を伝える民藝への理解、造詣が深い隆貴さんは、「地域の仕事としてやっていくか、まだ正解が見えないが、自分の作品をつくりたい」と話す。考えるが、考え込まない。その自然体たる姿が頼もしい。
(平成29年9月22日取材)

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